魔界
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年末にドラマ『モテキ』の一挙放送をやっていて、DVDを持っているにも関わらずほとんど全部観てしまいました。
DVDは全編ディレクターズ・カットだから放送版より充実した内容だし、当然いつでも観られるのだけど、やっぱり「テレビでやっている」ってのが動機として強い。その時間にチャンネル合わせとけば勝手に始まるし、あとみんな観てるってのがよいですね。Twitter好きな人たちは基本的に寂しがり屋なので助かります。
で、まあ、深夜にだらだらしながら観ていて、懐かしかったし、特にわたしが童貞だった頃や、童貞じゃなくなった前後のことなどを思い出すなどして、その意味でもとても懐かしかった。『モテキ』はマンガもドラマも本当によくできているよなあ。
当たり前のことなんですが、あらためて言うなら童貞って「精神的なもの」ですよね。女性の膣に挿入した瞬間に何か肉体的なスイッチが起動してその瞬間ついにちんちんが形態を変える…!とかいうわけではない。ただ単に「性行為をした」という体験を自己認識できて、はじめて心の問題を過去のものにできる。だからその気になれば、「自分はもう童貞じゃないんだ」と強く思い込めば、性行為がなくても童貞じゃなくなることも理論的には可能かもしれない。わたしも遅かったものですから、だいぶそれに近い考え方でやり過ごしていた期間が長くありました。
そんな諦めかけていたわたしも、童貞じゃなくなったときの感動は、そりゃ、めちゃくちゃにありましたね。(じ、自分は童貞じゃないよ…うん…)っていう社会的なポージングや思い込みを金輪際やらなくていい開放感、わたしが童貞ではないことを裏付けてくれる理想的な証人の誕生。やはり女性と深く関わりあうことでしか埋められない穴はあったのだ…!と、当時のわたしは27歳にして強く強く思い知りました。
生まれて初めて本当に好きになれた彼女ができて、その彼女と段階を追っていよいよ至れたことによって、わたしにとって童貞は完全に過去のものとなりました。肉体的な形態の変化はないけれど、精神的な形態には明らかに、如実に変化があった。
当時のわたしはその心境の変化を「魔界の扉が開いた」と表現しました。
童貞だったころは慢性的に女性に対して苦手意識やコンプレックスがあったのです、今にして思えば。女性として意識しすぎるあまり、自分をよく見せたい気持ちがみなぎるあまり、言動が空回りすることも数多くあった。だって自分はこんな年齢にして彼女いない歴=年齢の童貞なのだから、はっきり言ってだいぶゴミだろ。人間として問題があるだろ。そんなわたしが畏れ多くも尊き女性たちに気軽にお近づきになってよいものか…いや、よくない。…みたいな考えが水槽の底に溜まったヘドロのように長年にわたって沈殿していたのです。
それがある日、なくなった。じわじわと、そして一気に、きれいさっぱりなくなった。代わりに、男としての自信があらわれた。今まで抑制されていた感情が、ダムが決壊したかのように一気に雪崩れ込んできた。わたしはどんな女性ともいくらでも仲良くなれる可能性に満ちていて、そのハードルは今まで思っていたものよりも格段に低くて、あわよくばそこでさらなる展開を望むことも現実的に考えてそんなに難しくない。
欲望の扉がバァーンと開かれたのです。
当時のわたしはその、「魔界の扉が開いてしまってヤバイ」ことを、率直に彼女に打ち明けました。それによってなんとか自制し、自分で取り付けた首輪に電流を流し続け、聡明な彼女の理解と協力をも得て、大きな過ちを犯すことなく無事に暴れ竜の季節を落ち着かせていくことができました。
が、今でもあの魔界の扉が開かれた瞬間の、世界が爆発的に広がったような、鬼にもなったし金棒も同時に手に入れたような、ファイナルファンタジーなら飛空艇を手に入れた直後のような、最大級の胸のときめきと興奮をときどき思い返します。
『モテキ』は、そんな魔界を実によく描いている。
モテキの主人公・藤本幸世は、モテ期の到来によって魔界の扉が開いてしまって、その上で、魔界から吹いてくる風を制御するのではなく、楽しく身を任せるほうを選んでしまった。どう考えてもクソ野郎だけど、そうなるお気持ちは大変よくわかります。わたしも一歩間違えたら、ああいう風になっていたかもしれない。自分のアナザーサイドを見ている気分になる。
一方で、その続きを描いた劇場版『モテキ』では、藤本幸世は魔界から吹いてくる風に懲りたどころか、さらに目いっぱい全身で浴びて一層陶酔した表情で漂いやがっております。マンガやドラマではまだ共感できる部分が多くて成長もしてきたクソ野郎だったのが、ただの腹立つゴミクソ野郎になってしまった。しかも、まだ自分は童貞出身のコンプレックスありますよ~ん☆みたいなポージングを都合よく保ちやがるので、ひどくタチが悪い。ただそれも、魔界の風に身を任せてしまった怪物の“なれの果て”として、わたしの身に置き換えてみたときも容易に想像ができてしまう。
『モテキ』は、原作マンガもドラマも劇場版も、モテ期がはじまっていく序盤が最も楽しいです。これは間違いない。魔界の扉が開いた瞬間のあの昂ぶりのエッセンスがたっぷり詰まっているからです。ただし物語として整合性をつけようとすると、どうしても幸世は痛い目に遭って説教されなければならないので、ドラえもんだったらラスト数ページでボロボロになったのび太くんがドラえもんに泣きつけば済むような話を、ある程度の恋愛的文脈でもってきちんとやらなくてはならないので、そこがつらいし面倒。
って書いてて思ったんだけど、モテキってドラえもんと構造的に似ているんじゃないの。「幸世=のび太」だわ。
そもそもドラマ版『モテキ』ではドラえもんパロディーのダンボール製タイムマシンが出てくるし、これ、わたしは完全にいま気付いたんだけど、ひょっとしてモテキ好きにとっては今更過ぎる常識だったのでは…???
えっじゃあモテキにおけるドラえもん役は誰だろうって考えたけど、これはその都度、林田尚子だったり島田だったり、ヒロインたちも含めた幸世以外のみんなですね。クズの周りにいる人たちは自然とドラえもんみたいな役割になってしまうわけですね。
(つまりこれは、幸世やのび太と同タイプのクズであるわたしにもなんだか思い当たる節がありますね…その、もしかしたらわたしは今まで彼女に対してずっとドラえもん的役割をお願いしてしまっていた部分が少なからずある…気がする…おそらく………不思議なポッケで叶えてくれた…アンアンアン…とってもだいすき…ドラえもん………いつか必ずジャイアンをボコボコにするから見ててね…)
DVDは全編ディレクターズ・カットだから放送版より充実した内容だし、当然いつでも観られるのだけど、やっぱり「テレビでやっている」ってのが動機として強い。その時間にチャンネル合わせとけば勝手に始まるし、あとみんな観てるってのがよいですね。Twitter好きな人たちは基本的に寂しがり屋なので助かります。
で、まあ、深夜にだらだらしながら観ていて、懐かしかったし、特にわたしが童貞だった頃や、童貞じゃなくなった前後のことなどを思い出すなどして、その意味でもとても懐かしかった。『モテキ』はマンガもドラマも本当によくできているよなあ。
当たり前のことなんですが、あらためて言うなら童貞って「精神的なもの」ですよね。女性の膣に挿入した瞬間に何か肉体的なスイッチが起動してその瞬間ついにちんちんが形態を変える…!とかいうわけではない。ただ単に「性行為をした」という体験を自己認識できて、はじめて心の問題を過去のものにできる。だからその気になれば、「自分はもう童貞じゃないんだ」と強く思い込めば、性行為がなくても童貞じゃなくなることも理論的には可能かもしれない。わたしも遅かったものですから、だいぶそれに近い考え方でやり過ごしていた期間が長くありました。
そんな諦めかけていたわたしも、童貞じゃなくなったときの感動は、そりゃ、めちゃくちゃにありましたね。(じ、自分は童貞じゃないよ…うん…)っていう社会的なポージングや思い込みを金輪際やらなくていい開放感、わたしが童貞ではないことを裏付けてくれる理想的な証人の誕生。やはり女性と深く関わりあうことでしか埋められない穴はあったのだ…!と、当時のわたしは27歳にして強く強く思い知りました。
生まれて初めて本当に好きになれた彼女ができて、その彼女と段階を追っていよいよ至れたことによって、わたしにとって童貞は完全に過去のものとなりました。肉体的な形態の変化はないけれど、精神的な形態には明らかに、如実に変化があった。
当時のわたしはその心境の変化を「魔界の扉が開いた」と表現しました。
童貞だったころは慢性的に女性に対して苦手意識やコンプレックスがあったのです、今にして思えば。女性として意識しすぎるあまり、自分をよく見せたい気持ちがみなぎるあまり、言動が空回りすることも数多くあった。だって自分はこんな年齢にして彼女いない歴=年齢の童貞なのだから、はっきり言ってだいぶゴミだろ。人間として問題があるだろ。そんなわたしが畏れ多くも尊き女性たちに気軽にお近づきになってよいものか…いや、よくない。…みたいな考えが水槽の底に溜まったヘドロのように長年にわたって沈殿していたのです。
それがある日、なくなった。じわじわと、そして一気に、きれいさっぱりなくなった。代わりに、男としての自信があらわれた。今まで抑制されていた感情が、ダムが決壊したかのように一気に雪崩れ込んできた。わたしはどんな女性ともいくらでも仲良くなれる可能性に満ちていて、そのハードルは今まで思っていたものよりも格段に低くて、あわよくばそこでさらなる展開を望むことも現実的に考えてそんなに難しくない。
欲望の扉がバァーンと開かれたのです。
当時のわたしはその、「魔界の扉が開いてしまってヤバイ」ことを、率直に彼女に打ち明けました。それによってなんとか自制し、自分で取り付けた首輪に電流を流し続け、聡明な彼女の理解と協力をも得て、大きな過ちを犯すことなく無事に暴れ竜の季節を落ち着かせていくことができました。
が、今でもあの魔界の扉が開かれた瞬間の、世界が爆発的に広がったような、鬼にもなったし金棒も同時に手に入れたような、ファイナルファンタジーなら飛空艇を手に入れた直後のような、最大級の胸のときめきと興奮をときどき思い返します。
『モテキ』は、そんな魔界を実によく描いている。
モテキの主人公・藤本幸世は、モテ期の到来によって魔界の扉が開いてしまって、その上で、魔界から吹いてくる風を制御するのではなく、楽しく身を任せるほうを選んでしまった。どう考えてもクソ野郎だけど、そうなるお気持ちは大変よくわかります。わたしも一歩間違えたら、ああいう風になっていたかもしれない。自分のアナザーサイドを見ている気分になる。
一方で、その続きを描いた劇場版『モテキ』では、藤本幸世は魔界から吹いてくる風に懲りたどころか、さらに目いっぱい全身で浴びて一層陶酔した表情で漂いやがっております。マンガやドラマではまだ共感できる部分が多くて成長もしてきたクソ野郎だったのが、ただの腹立つゴミクソ野郎になってしまった。しかも、まだ自分は童貞出身のコンプレックスありますよ~ん☆みたいなポージングを都合よく保ちやがるので、ひどくタチが悪い。ただそれも、魔界の風に身を任せてしまった怪物の“なれの果て”として、わたしの身に置き換えてみたときも容易に想像ができてしまう。
『モテキ』は、原作マンガもドラマも劇場版も、モテ期がはじまっていく序盤が最も楽しいです。これは間違いない。魔界の扉が開いた瞬間のあの昂ぶりのエッセンスがたっぷり詰まっているからです。ただし物語として整合性をつけようとすると、どうしても幸世は痛い目に遭って説教されなければならないので、ドラえもんだったらラスト数ページでボロボロになったのび太くんがドラえもんに泣きつけば済むような話を、ある程度の恋愛的文脈でもってきちんとやらなくてはならないので、そこがつらいし面倒。
って書いてて思ったんだけど、モテキってドラえもんと構造的に似ているんじゃないの。「幸世=のび太」だわ。
そもそもドラマ版『モテキ』ではドラえもんパロディーのダンボール製タイムマシンが出てくるし、これ、わたしは完全にいま気付いたんだけど、ひょっとしてモテキ好きにとっては今更過ぎる常識だったのでは…???
えっじゃあモテキにおけるドラえもん役は誰だろうって考えたけど、これはその都度、林田尚子だったり島田だったり、ヒロインたちも含めた幸世以外のみんなですね。クズの周りにいる人たちは自然とドラえもんみたいな役割になってしまうわけですね。
(つまりこれは、幸世やのび太と同タイプのクズであるわたしにもなんだか思い当たる節がありますね…その、もしかしたらわたしは今まで彼女に対してずっとドラえもん的役割をお願いしてしまっていた部分が少なからずある…気がする…おそらく………不思議なポッケで叶えてくれた…アンアンアン…とってもだいすき…ドラえもん………いつか必ずジャイアンをボコボコにするから見ててね…)