20代をふりかえる
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ついに30歳になってしまいました。まさかこんなに幼稚なまま30歳になれてしまうとは。子供の頃の私に教えてあげたら普通にけっこうびっくりすると思います。それくらい子供です。ほんのちょっと納得いかないときに「えーん」と泣いたフリをしてふざけますし、おいしいパンケーキを食べると簡単にごきげんになります。30歳ってもっと、責任とか立場とか、めちゃくちゃ大人だと思ってました。
まあ「責任とか立場とか」に関しては、これまでの怠惰によるものが相当大きいです。20代ではつとめて「明るく前向きに」生きることをテーマとしました。というのも、10代の私は大半を引きこもりとして過ごし、ひどく暗黒な心地で生きてきたので、その反動から、失った青春を取り戻そう、どんなときもニコニコして楽しく過ごそうと強く思っていました。それは概ね成功し、恋人や多くの友達もできて、よく遊びや飲みに出かけ、好きな音楽やマンガにはそこそこ詳しい、おそらく10代の私が夢見たであろう理想的な大人像に限りなく近づけたと思います。それは、とてもよかった。
一方で現実的な分野においては、とくに職とか収入とか地位とかそういう部分については、ほとんどおざなりにしてきてしまった感があります。唯我独尊的に趣味を優先し、面白いものに敏感に反応するようにしてきた私は、かれこれ自己愛が強い方だと長らく思っておりました。が、ごく最近になって、それはあくまで『目先の自己愛』でしかなく、本当の自己愛とは5年後10年後の自分の幸せのために行動できることなのではないかと感じました。
要するに20代でプラプラ遊びすぎて、人生詰んできた。
今になって思うのですが、10代の私がずっと暗黒な心地で生きていたのは、当時はまだ現実を直視していたからです。同世代の人たちが学業をつとめて青春を送り、順調に大人の階段を登っていく中で、学校にも通わず閉じこもっている自分はそういう道を大きく外れてしまっているという危機感が常にあった。このままではマズい。なんとかしなければ。
それらの苦しみや不安からひとまず距離を置くため「明るく前向きに」生きようってなって、将来のことよりもまず目の前の面白いことに飛びつくことで、荒れていた精神の安定をはかった。一時的には必要だったとは思います。ただ、それを長くやりすぎた。具体的には23歳くらいにはとっくに「明るく前向きに」過ごすことができるようになっていました。でも周りの大人たちも「まだまだ遊んでていいんじゃないの?若いから!」とか言ってくれてるし、じゃあとりあえずそれでいっか、楽しいし。だってオレは暗黒の10代を過ごしたから今から青春をガンガン取り戻さなければならないので、これでいいのだ。
自己正当化の方便や屁理屈ばかり達者になってしまって、ダラダラ歳を重ねていってさすがに段々ヤバいのがわかってくるのだけど、薄々気付けば気付くほど、いや、これは心の安定のために逃げなければ、もっと面白いほうへ行こうぜ、ってなっていった。言ってみれば「ネタに生きよう」です。
アウトプットの対象がブログからTwitterに移行していったりして、ますますその傾向は強まる。自虐ってなんて便利なんだ!これだけ自分のことが見えていて客観的なネタにできているのだから、それってきちんと自己理解できてるってことだよね!じゃあこれで納得でしょう!しかも観た方からはけっこう面白がっていただけるんだから気分いいよな!こんなに良いことがあるのか!もっとやろうぜ!量産しよう!
直視しなければならないはずの現実が面白おかしいフィルターの向こう側で放置され続けていった。
そして現れる、人生詰みかけてるアラサー独身男性(実家暮らし)!
本人は喜劇だと思ってやってきたけど、傍目には悲劇以外の何物でもない現代社会の闇!!
まあ凡そ、私の20代の多くはこんなところであります。
少し話は変わるのですが、明るく前向きに、と私が心がけてきた中で、どういうわけか20代の間はほとんど涙を流すことがなくなっていて。形容として「泣いた」とかはよく使っていたけれども、多くは一瞬ウルッとくるくらいでした。ウルッとこなくても感情がある程度高まったら「泣いた」とか書いていた。大好きなバンドの解散ライブでも、大好きなミュージシャンが死んだときも、視界が軽く滲んだくらいで、一滴も出なかった。
いや、べつに大人ってこういうもんなんじゃないの、だって泣いてる大人なんてあんまり見かけないもんね、と長らく割り切っていたのですが、いま考えるとこれ、知らず知らずのうちに「明るく前向き」フィルターが向精神薬みたいな作用をしていて、自分の中の負の感情とまともに向き合うことさえ避けていたかもしれないと思った。いつもニコニコ笑うことで何もかも誤魔化してきた。
で、つい先日、わけあってボロッボロに泣くことができた。それは彼女と電話をしながらのことで、奇しくも20代最後の日だったのですが、20代の最初で最後にちゃんと泣いた日がまあ、たまたまその日になった。
その、ふられたとかではなくて、本当にちょっとしたことなのですが、もう「明るく前向き」はやめよう、やめなければいけないんだよな、って身に染みて思い知ったときに涙が一気にぼたぼた落ちてきたので、「明るく前向き」がいかに自分の感情に蓋をしてきたのかがそのとき初めて浮き彫りとなった。
そこに至った経緯は決して褒められるものではなかったのだけども、呪いが解けた感触があった。ずっとこういう日を待っていたのかもしれない。気付くのがあまりにも遅すぎたけども、最後の最後にやっとたどりつけた。
そして導き出された私の30代、当面の目標は「ネガティブになる」です。それはこの場合「現実を直視する」と同義です。長く険しい30代になるとは思いますが、よろしくお願いいたします。必ずや、幸せになります。
まあ「責任とか立場とか」に関しては、これまでの怠惰によるものが相当大きいです。20代ではつとめて「明るく前向きに」生きることをテーマとしました。というのも、10代の私は大半を引きこもりとして過ごし、ひどく暗黒な心地で生きてきたので、その反動から、失った青春を取り戻そう、どんなときもニコニコして楽しく過ごそうと強く思っていました。それは概ね成功し、恋人や多くの友達もできて、よく遊びや飲みに出かけ、好きな音楽やマンガにはそこそこ詳しい、おそらく10代の私が夢見たであろう理想的な大人像に限りなく近づけたと思います。それは、とてもよかった。
一方で現実的な分野においては、とくに職とか収入とか地位とかそういう部分については、ほとんどおざなりにしてきてしまった感があります。唯我独尊的に趣味を優先し、面白いものに敏感に反応するようにしてきた私は、かれこれ自己愛が強い方だと長らく思っておりました。が、ごく最近になって、それはあくまで『目先の自己愛』でしかなく、本当の自己愛とは5年後10年後の自分の幸せのために行動できることなのではないかと感じました。
要するに20代でプラプラ遊びすぎて、人生詰んできた。
今になって思うのですが、10代の私がずっと暗黒な心地で生きていたのは、当時はまだ現実を直視していたからです。同世代の人たちが学業をつとめて青春を送り、順調に大人の階段を登っていく中で、学校にも通わず閉じこもっている自分はそういう道を大きく外れてしまっているという危機感が常にあった。このままではマズい。なんとかしなければ。
それらの苦しみや不安からひとまず距離を置くため「明るく前向きに」生きようってなって、将来のことよりもまず目の前の面白いことに飛びつくことで、荒れていた精神の安定をはかった。一時的には必要だったとは思います。ただ、それを長くやりすぎた。具体的には23歳くらいにはとっくに「明るく前向きに」過ごすことができるようになっていました。でも周りの大人たちも「まだまだ遊んでていいんじゃないの?若いから!」とか言ってくれてるし、じゃあとりあえずそれでいっか、楽しいし。だってオレは暗黒の10代を過ごしたから今から青春をガンガン取り戻さなければならないので、これでいいのだ。
自己正当化の方便や屁理屈ばかり達者になってしまって、ダラダラ歳を重ねていってさすがに段々ヤバいのがわかってくるのだけど、薄々気付けば気付くほど、いや、これは心の安定のために逃げなければ、もっと面白いほうへ行こうぜ、ってなっていった。言ってみれば「ネタに生きよう」です。
アウトプットの対象がブログからTwitterに移行していったりして、ますますその傾向は強まる。自虐ってなんて便利なんだ!これだけ自分のことが見えていて客観的なネタにできているのだから、それってきちんと自己理解できてるってことだよね!じゃあこれで納得でしょう!しかも観た方からはけっこう面白がっていただけるんだから気分いいよな!こんなに良いことがあるのか!もっとやろうぜ!量産しよう!
直視しなければならないはずの現実が面白おかしいフィルターの向こう側で放置され続けていった。
そして現れる、人生詰みかけてるアラサー独身男性(実家暮らし)!
本人は喜劇だと思ってやってきたけど、傍目には悲劇以外の何物でもない現代社会の闇!!
まあ凡そ、私の20代の多くはこんなところであります。
少し話は変わるのですが、明るく前向きに、と私が心がけてきた中で、どういうわけか20代の間はほとんど涙を流すことがなくなっていて。形容として「泣いた」とかはよく使っていたけれども、多くは一瞬ウルッとくるくらいでした。ウルッとこなくても感情がある程度高まったら「泣いた」とか書いていた。大好きなバンドの解散ライブでも、大好きなミュージシャンが死んだときも、視界が軽く滲んだくらいで、一滴も出なかった。
いや、べつに大人ってこういうもんなんじゃないの、だって泣いてる大人なんてあんまり見かけないもんね、と長らく割り切っていたのですが、いま考えるとこれ、知らず知らずのうちに「明るく前向き」フィルターが向精神薬みたいな作用をしていて、自分の中の負の感情とまともに向き合うことさえ避けていたかもしれないと思った。いつもニコニコ笑うことで何もかも誤魔化してきた。
で、つい先日、わけあってボロッボロに泣くことができた。それは彼女と電話をしながらのことで、奇しくも20代最後の日だったのですが、20代の最初で最後にちゃんと泣いた日がまあ、たまたまその日になった。
その、ふられたとかではなくて、本当にちょっとしたことなのですが、もう「明るく前向き」はやめよう、やめなければいけないんだよな、って身に染みて思い知ったときに涙が一気にぼたぼた落ちてきたので、「明るく前向き」がいかに自分の感情に蓋をしてきたのかがそのとき初めて浮き彫りとなった。
そこに至った経緯は決して褒められるものではなかったのだけども、呪いが解けた感触があった。ずっとこういう日を待っていたのかもしれない。気付くのがあまりにも遅すぎたけども、最後の最後にやっとたどりつけた。
そして導き出された私の30代、当面の目標は「ネガティブになる」です。それはこの場合「現実を直視する」と同義です。長く険しい30代になるとは思いますが、よろしくお願いいたします。必ずや、幸せになります。