ある深夜

いつものように飲んで終電で帰宅していると、駅で発車間際の車両側面に「ドゴン」という明らかに人が当たったような鈍い音がして、それからほんの一瞬だけ走り出してしまったあと、即座に急停車した。しばらくして車掌の状況説明が“安全確認“から”人身事故”へと変化し、心地よいほろ酔いもすっかり覚めてしまうこととなる。救助がはじまり、そのために当該車両から前後の車両へ乗客は移るよう指示をされ、車内の電気がすべてシャットダウンされると、レスキュー隊をはじめとする方々の懸命な声がすぐそばで轟く暗闇で、じっと身を置く状態になった。


電車が止まってしまった時点から、ぼんやりとしたストレス性の腹痛らしきものが湧いてきていて、これはいっそイヤホンでもして完全に心を閉ざし事態が過ぎ去るのを待つ手もあるな、と何度か思ったものの、すでに周囲の状況がわかってしまっている中で、いまから我関せず蓋をするのはだいぶ無理があった。目の前の情報の洪水と向き合うしかない、という感じで少しだけ肝が据わると、突然舞い込んできた非日常によって眠っていたセンサーがにわかに働き始める感覚があった。


事故に遭われたご本人を筆頭に、たまたま終電に乗り合わせて時を共にしてしまったすべての乗客、乗務員や駅員さんたち、出動してきたレスキュー隊の方々、一定区間の電車が止まることによって影響を受けているその他すべての人、ウワッ、人の数だけ独立したひとつひとつの人生があってすごい、空から見たら停滞する満天の星空だと思った。それぞれがそれぞれ現在、たとえば不安や睡魔や便意、救命や安全などのため戦っており、ぶわっと想像したそれらがあまりに途方もない情報量だったので本当にどうしようもない気持ちになった。なるほど、普段は全然こんなふうに見えていない、全部見えていたらあっという間にキャパを超えて気が狂ってしまう、生活のためなるべく見えないよう視野を絞って暮らしている。日頃の想像力のなさを自戒する気持ちも芽生えたものの、それより安定を脅かすものを無意識に避ける部分が強くあることに気付いた。特に私はあまりになんとなく生きているので、回避しがちな習性をもうちょっと自覚したほうが良いように思えた。


事故に遭われた方が今夜どのような状態であったかはわからない、泥酔していたのか、元々なにかの疾患をお持ちだったのか、それとも休日に終電まで労働していたその帰りだったのかもしれない、けれども、誰にでもこういうことは起こり得る。まったく他人事でもなんでもない。事故の発生から救助までの一部始終を縁あってすぐ近くで見守った者としては、ただただご無事であられることを願った。私もメチャクチャに酔っ払うのはとても楽しいけど、気をつけよう、友人に何かが起こり得るのを感知できる立場にいたら、それもやっぱり気をつけよう、といった感じのことをぐるぐる漂わせた。


救助が終わって車内の闇が解け、電車がゆっくり動き出し、駆け足で日常が戻ってくる。まだその夜のうちは満天の星空を垣間見た余韻が冷めやらず、妙に活性化してしまっていた。睡眠をひとつ挟むとだいぶ遠ざかっていたので、忘れないうちに書くことにした。良くも悪くも心に祭りがやってきて、感情や思考がもくもく湯気や煙を立てている状態にあるとき、このつかみようのない感覚をどうにかして言語化するのが私の人生だろうが、みたいなことをわりと思ってしまうし、シャットダウンした真っ暗闇な電車の中でも繰り返し、しがみつくように考えていた。